新型コロナの精神的病(やまい)についてのメモ

新型コロナの精神的病(やまい)についてのメモ

だんだん暑さがでてきて……

新型コロナウイルス感染症、もう「新型」と呼ぶのも居付きが悪くなってきた感があります。
緊急事態宣言も解除が進んで、世間の空気感は4月中よりだいぶ丸くなったのではないでしょうか。
ぼくの家にはテレビがないので受けとっている印象もずれがあるかもしれませんが。
コロナ禍のいま考えていること、反省点、あるいは今後考えたいところをざっと書きます。
 

統計的と個別的

この3ヶ月間、まるで数字ばかりを追い続けてきました。
ただ真ん中がすっぽぬけた感がどこかにありました。
感染対策と経済維持のバランスが肝要だ……しかし政府は「経済」を語ってくれない。感染予測は提示されても、経済予測は出されない。
マクロに見ておかしい。その批判は正当だし、現時点でも与野党は議論を起こしてほしいところです。
 
それはそうなのですが、マクロ=大きい部分ばかりに集中し、ミクロ=小さい部分まで見ないようになっていた。自分の視野もふくめて。
 
たとえば、介護施設に入居している家族に会えない。
葬儀に立ち会えない。
花見にいけない、学校にいけない。
いろいろな話があった。
自分の身の回りでは、やはりライブができない、イベントもできない、外出も遊びもできない。
そういった現実がある。
なのに、どうも大きい部分ばかりを議論してしまっていた、その居心地の悪さが、いまあります。

やっぱり「公」=マクロが優先され、「私」=ミクロが犠牲になった。
感染症だから最初っからそれはわかっていたけど、ぜんぜんダメな通りぬけ方しかできなかった。
 
つまり、正しさに怯えてそうなってしまう。
正しくないこと、この状況で間違えた認識で行動してしまうこと、そのとき糾弾されるかもしれない、その予感に怯える。
「みんなが守りやすいようなはっきりしたルール」をみんなが求めていたような気がします。
しかし小さな切実さがここまでないがしろにされるような反応、あり方というのは、根本的にどこか問題があったのではないでしょうか。
 

責任だったもの

自分のなかにあるものです。
与党も野党も、ほんとうはいわなきゃならないだろうことを、なんとなく感じながら、でも言いにくいことは言わずにすませて、言いやすいことのみを言っているように見えました。
それは自分のなかにもあるものです。
したがって、だから、ぼくはそのことに苛立って、あせって、同時になにかにすがりたかったのです。
  
人が死ぬ。自由が制限される。経済が悪化し生活が危機におちいる。
高齢者は死ぬ。高齢者は隔離してください。医療従事者は地獄です。
それが現実? そうなのか 言いにくいな……そこで、思考を停止する。
 
ライブはしたい。まだ若いからきっと大丈夫だろう。
でも"加害者になったらどうしよう"——。
加害者、の誹りをうけて、まわり、にも迷惑がいったら「責任がとれない」。
 
なので、「なにもしない」というのが正解になりました。
「なにもしな」ければ、なにも起こらないので、なにも責任が発生せず、いちばん平和なのです。
 
そうして衰えていきました。社会が。
ぼくたちは、社会を守る責任をとらなかった。
「命を守って」いたけれど、じっさいには守ってなどいなかった。
つまり社会も、文化も、自由も、一人ひとりの小さな切実な時間も、失われていきました。
 
……ぼくは「いまは」そう言うことができます。
あるいはそれは、ぼくの深層心理が、この事態をそんなふうに「見たい」から——かもしれませんが。
 
 
閑話休題。
 
頭を整理していうと、政治家も国民も、この自分自身も、言いにくいことを言う責任を避け、もっぱら摩擦のすくない方向に逃げていたように思います。
「そんなことない」と思いたいですが、現実には自分のことでいっぱいいっぱいでした。
「誰かの切実さを守る」だなんて。
でも不思議と「守る」という言葉が流行って、思い上がって、病のなかにいたのかもしれません。
 

言いにくさ、言いやすさ

ある時点から、このコロナは日本においては大したことないんだ、とわかってから、「言いやすいこと」をぼくは言うようになりました。
大したことないものは大したことないんだから、「みんな大したことないんだよ」とわかった数値をもとにして言えばそれでよかった。

大状況を目の前にして、とくにSNSで「当事者」(感染者、医療従事者、自治体首長、専門家……)の声とも対峙するなかで、ぼく(ら)は声を小さくするか、はんたいに声を「大きく」しすぎるかの、どちらかになってしまったようです。
社会全体で犠牲を払って感染対策をした。
もう、安堵していいころだ――。
じゃあ失った命は? これから失われる命は?
でも、それをいうなら他の死因も……。
と、相対化と絶対化のはざまで安定した物言いができなくなってしまいます。
 
しかしこれでは、ダメなんじゃないか。
言いにくいことはなんだろう。
そしてそれを言うには、どうしたらいいだろう。
感染症も、感染症以外の根本的な社会の問題も、終わっていない。
言いづらくても、誰かが言わなくちゃいけない、言いにくいことを言う。
そんなことを考えています。



COVID-19
【死者数】
世界 30万2344人
日本 725人
【感染者数】
世界 451万8501人
日本 1万6066人
(すべて2020年5月17日現在のデータから) 

・新型コロナウイルス関連倒産は、日本全国で152件判明している。
「ホテル・旅館」業はもっとも多く、34件。
次いで「飲食店」が19件。
「アパレル・雑貨小売店」が13件となっている。

・4月の日本全国の自殺者数は1455人で、前の年に比べおよそ20%減ったとのこと。
仕事や学校に行かないでいる状況が影響した、ともいわれているが、今後、長期的にみないとわからないだろう。

日本の2019年の死亡者数は137万6000人、
出生者数は86万4000人だった。
三大感染症と呼ばれるエイズ、結核、マラリアでは、毎年世界で250万人が亡くなっている





((書いててわかってきましたが、ここで「マクロ」と呼ぶものは、「一般論」に近いものかもしれません。一般論ばかり考え、語るようになっていた。「ミクロ」すなわち主観、自分ごとの言葉が後退してしまっていた。一般論を一般論として語るそのままでは、敗北することができない。敗北することができなければ、変わることもできないのです。))

((データや統計で政策決定するしかない。国民もそれに乗じる。けれどデータや統計からは個人の人生その時間が見えない。そのあたりを考えたい。))

((特にミュージシャンというのは、臆病な人々なのだなと思います。))

((それにしても近頃の野党の動きは「言いにくいこと」をそのままに、動けるところで動いているかのようです。与党の責任そらしもひどいけど野党もたいがいだ。って、定年延長問題もいいけど、経済議論がマスコミ含めて後退してることにあまりにおかしいのではと……。政治の話題は友と敵を分けます。「政治とぼくたちの関係」もまた、つくづく考えなおしていきたいところです。))

((マスコミの問題もあからさまでした。))

((誰が死んで、誰が生き残ったのだろう。そしてこれから。))

((「コロナは日本では大したことない」もちろん、その言い方の暴力性もあります。けれど、では、どう表現すべきか……そこで思考が止まって、口が閉じてしまう。閉ざしたところから、どこかでなにかが崩れはじめます。))

((医療崩壊の懸念がひとつの中心にあります。緊急事態宣言解除の重要な基準もここに置かれています。ただぼくはこの件についても懐疑的なのです。「自粛」をあまりに奨励しすぎていて、話がずれていっている気がしてなりませんでした。たとえば、医師会のトップがそう言うときに。))

((現実状況のなににフォーカスするかで物語が変わってきます。そして国民同士の物語の衝突が起こっているのがいまの状況です。コロナ以前からそうです。様々な論者が指摘を重ねてきましたが、けっきょく「主体」をつくらなければその問題を突破できない。そう考えて、そのために表現を重ねたいと思います。))

((こうして書き記すことが、はしたないこと[あるいは、ひとつの加害、ひとつの暴力]だと自戒したうえで、表現を発していきます。))

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