新型コロナの冬と自由

1 新型コロナの冬

 新型コロナ禍の緊張度がまたあがってきました。なるべく冷静でいたいと思いつつ、この状況に対してなにかいいたい気持ちも出てきました。
 この一年で得た感想でもっとも強いものは、コロナ禍で失いかけているものは「自由の価値」だったんだということ。そのことが最初はわかりませんでした。けれどずっと考えて、なんとか少しづつわかってきた気がします。


2 様々な立場から

 「そこにいけば自由になれる」と思って、ライブハウスに行った。休みの日に地元から離れて、ちょっと遠くに遊びに出かけた。そんな営みが真っ先に否定され、慎むべきものとされてしまいました。
 人々が活動すればウイルスは流行る。冬場になればますます流行る。政府も人々もどうしたらいいのかわからず、議論もまとまらない。

 この一年、医療関係者のお話をみんな聞いてきました。彼らは「専門家」なのだから当然お話を聞く必要があります。新型コロナの対応で逼迫する医療現場の苦労も深刻な様子で、現場を知らないぼくみたいな人間がなにかいうことも遠慮したくなります。
 しかし、感染対策は社会全体を巻き込む性質のもので、ならば「専門家」とはひとえに医療関係者が独占しているものではなく、すべての生活者が「それぞれの専門家」であるともいえるはずです。

 その意味で、もっと多様な立場からの意見が交わされていいと思う。「俺は大工だけど正直コロナは気にしてらんないんだ」という話も実際はあるはずだし、「医療現場は限界でもう逃げてやめてしまいたい」という話も同じように聞く。「ステイホームといっても家の中が憂鬱なんだ」といってもいい。それぞれが自分の思いや立場をもっているのだから、それがわかったほうがいいと思うんです。なかなか胸の内をいいづらい面があって、それがずるずるした雰囲気をつくっている。とにかく、「現場」はそれぞれにあって、どれかひとつじゃないだろうということはいいたい。


3 自由を守る

 ぼくは一応ミュージシャン——もといライブハウスで演奏してきた人間だから、その立場で自然と考えます。歌いたいことを歌えて、好きな人に会える自由。好きな場所にいける自由。好きなことができる自由。「自由」というものはなんと大切なんだろうかと、それが制限されてはじめて実感したような気がします。自由があるから、生きていたいと思えるんだと。

 コロナ禍になって、「自由を守る」ということを考えるようになりました。つまるところ文化や芸術が存在する意味とは、社会のなかに自由を広げることだったり、このような危機のときに自由の価値を守ることにあるんじゃないだろうか。同時に、そこに批判や抵抗があることも当たり前のことなんだろうと思います。それは一般社会の価値観と、ときに逆行するから。
 けれど本当は、文化や芸術は自由を守るためにあって、それを手放したらなんの意味もなくなってしまう——そんな風に考えることがただしいんじゃないかと。

 ぼくみたいなマイナーで何の力もない人間にできることはとても小さいのですが、せめて自分の頭で考えて発言したり、ライブをしたり表現することはしていきたい。それが自分にとっての「自由」の意味かもしれない。もともと、そのために歌いはじめたんだ、とあらためて思い返して。


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