東日本大震災から九年の日に

東日本大震災から九年がたった。
あの頃を思い出す——そういった静かな追想がおいつく前に、新型コロナウイルスの件で日本中……だけでなく世界中が大騒ぎとなっている。
確かに死者数は連日増えている。世界中で感染者数もはねあがった。
けれど、死者におびえる僕たちは、死者をまともに追悼できているのだろうか?

静かに黙祷する時間が貴重に思える。
コロナに過集中するあいだに、ほかの大事なものがすべり落ちている。
感染大流行は避けなきゃならない。
だけど大事なことの順番がちがっているようにも思う。
———それは、自分のなかにある何か、なのかもしれないけど。

震災のときに、「音楽の意味」についてけっこう考えていた。
人がたくさん死んで、そのときに、歌をうたう意味なんてあるのだろうかと。
その瞬間に、鳴らすべき音がわからない。
いまはどうだろう?
コロナウイルスと、人々の反応と、違和感を覚えるものはけっこうある。
国境のはざかいで起こっていることは典型だ。
でももっと身近でも、違和感はある。

僕なんかは、歌をつくるとき、「人を救う」なんてあまり思っていない。
そんなことできるとも思っていない。
むしろ、なにかの批判がそこに込められていたりもする。
僕たちがしゃべっている言葉、使っている言葉の、その限界やワクが、危機のときにあからさまにされてしまう。
本当に思ってるけど言えないこと。言うべきだったはずなのに言えないこと。
その蓄積がたまり、大いなる失敗が、後にやってくる。
そんな歴史を僕たちは繰り返していないか?

震災から九年目の日。
過去をよく知り、教訓を学ぶことを意識したい。
未来にのこすべきものを考える前に、克服しなければならないもの、あるいは、捨てなければならないものについて、よく考えるために。

0 件のコメント :

コメントを投稿